風来記

侍モドキとバイクの放浪旅を綴ってます。

盛岡散策

614

 

正直、半信半疑というか、あまり期待していなかったというか。

野を越え山を越え、都会から離れていると肌で感じるほどの国道をひたすら走り。

こんな奥地にほんとに県庁所在地なんてあるのか。あるんだろうが、そこまでの街ではないのかもしれんなと心の片隅では考えていた。

 

が、やがて北上川沿いの道に出ると、開けた視界に背の高いビルや角ばった建造物がチラホラと見えてくる。

「ああ…、やっぱりあったんだな、こんな奥地に、大きな街が。」

というのは決して馬鹿にしている訳ではなく、ここのところ田舎道ばかりだったので、やっと人っ気のある場所に出れたという安堵感からである。

 

IMG_0458.jpg

街にもバイク置き場はあるだろうが、ロケットⅢでも置ける場所かはわからない。川一つ越えた駐車場へバイクを停め、徒歩で盛岡駅方面へ向かった。

 

IMG_0466.jpg

雫石川を渡る。川上の奥には、盛岡を見守るかのように鎮座する山岳があった。道行く人に名を聞こうと思ったが、忘れた。

 

IMG_0483.jpg

盛岡駅。

もりおか 石川啄木と書かれているが、本人が駅の壁に書き込んだわけではあるまいな。

啄木が書いたものを拡大して模写したのだろうか。

 

IMG_0493.jpg

北上川に架かる『開運橋』。

盛岡へ転勤してきた人がここを通り「遠くまで来てしまった」と涙を流し、ここを離れる際には盛岡が恋しくなって再び涙を流すことから、別名を『二度泣き橋』ともいうらしい。

私はというと、まだまだ遠くへ来た感じはしない。

 

IMG_0497.jpg

そしてこれが北上川。

サケが遡上することで有名な清流だが、かつては松尾鉱山の強酸性水が流入し、壊滅的な被害を被ったそうだ。

現在は鉱山に中和処理施設を設置することで本来の美しさを取り戻しているが、松尾鉱山には今でも鉱物が残っており、常に強酸性水が生じているとのこと。つまりは、24時間365日、つねに中和作業を行うことによって北上川はこの姿でいられるというわけだ。

思えばこの北上川とは、石巻付近で出逢って以来の付き合いだった。そんな人々の努力が陰にあったとは知らなんだ。

 

 

IMG_0503.jpg

漠然と目指していた『盛岡城跡公園』へ到着。

 

IMG_0512.jpg

当時の地形がそのまま残っているのか、公園は起伏が激しく登るのに疲れる。

盛岡城は盛岡藩初代藩主・南部信直公が「三戸から不来方(こずかた)へ城を移そう」と決めたことによって1597年に築城開始。36年の年月を以て完成したとのことだ。

36年もかけて移設しないといけなかったんだろうなぁ…。

 

IMG_0518.jpg

てっぺんの本丸跡には、謎の台座があった。付近の看板によると、ここにはかつて南部利祥という人の騎馬銅像があったらしい。

藩主・南部家の子孫であった利祥氏は、戊辰戦争に負け東京に連行された父母の下、同地にて生誕。軍人としてその生を歩み、やがて日露戦争における最後の戦、奉天会戦にて敵弾を受け戦死した。

彼は日露戦争へ出征する直前に県知事と盛岡城址を新しい公園にしようと話し合っていたらしく、家の土地を民のために明け渡すという彼の尊大な人柄がうかがい知れる。

 

そんな騎馬像は、太平洋戦争にて金属の供出を求められた折、他多数の建造物と一緒に軍に差し出され、消えたそうだ。

この台座は、戦争の悲惨さを伝える象徴として現在まで残されているのだという。

 

民を想いながら散っていった藩主と、その想い、教訓を後世まで伝えようとする盛岡市民の一念に、感服するばかりであった。

 

 

IMG_0558.jpg

IMG_0564.jpg

さすがに日曜の朝10時は、まだみんな夢の中か。

この旅をしてから朝に活動する機会が多くなった。人混みを避けられるのはありがたいのだが、これはこれで少し寂しい。

昼時もまだ先なので、どこへも寄らぬまま来た道を戻ることにした。

 

 

IMG_0586.jpg

決して田舎などとは呼べない活気ある街でありながら、北上川など周囲の自然も大切にしているような形の盛岡。

自分勝手に土地を使わない。他の者の都合も考える。そんな南部家の意志が、どこかに受け継がれているのかな、なんて勝手に思った。

Leave a reply






管理者にだけ表示を許可する