厳美な国
6月13日
一関のすぐ上には平泉がある。平泉といえば、中尊寺や毛越寺など名高い歴史的建造物を多数擁する歴史の町なのだが、”中尊寺は昔行ったことあるし、毛越寺の風靡な提案も、自分には合わんなぁ…。”とスルーする予定だったのだが。
昨日温泉に浸かった『いつくし園』にて興味深いポスターを見つけたので、朝一番で訪れてみることにした。
達谷窟毘沙門堂(たっこくいわやびしゃもんんどう)だ。
窟に寄り添うように建てられた(懸崖造りというらしい)朱塗りの社が、実に岩手らしい、なんとも力強い面持ちであると興味を惹かれたのだ。
およそ1,200年の昔、惡路王といったいかにも悪そうな名前の賊たちがこの窟に要塞を構え、付近の良民たちをいたぶっていたという。
それを憂いた桓武天皇は、あの名高い坂上田村麻呂公を征夷大将軍に命じ、それらを討伐せしめたのだそうだ。
田村麻呂公は”この勝利は毘沙門天のお陰”と感じ、御礼に京の清水の舞台を真似た、この社『毘沙門堂』を建てたのである。
毘沙門天といえば悪鬼を祓う軍神。その縁を授かろうと、源 義家や源 頼朝、伊達政宗といった名だたる武士たちも崇めたという名実そして外観ともに威力のある場所なのだ。
床下の空間は諸国行脚の聖や山伏、乞食や戦に敗れた武士が休む安住の宿として扱われていたそうで、彼らが然る後生まれ変わる”再生の場”であるとして往古より一切の立ち入りが禁じられている。
社は幾度も焼失などに遭っており、現在あるのは昭和36年に建てられた五代目。内部は歴史を感じさせつつも綺麗に行き届いており、毘沙門堂には今まで見たこともない数の毘沙門天像が立ち並んでいた。居るだけで力が湧き上がってきそうな場である。
もう一つの名物『岩面大佛』。源 義家が馬上より弓はず(弦をかける部分)を使い彫ったのだとか。高さ約16.5mと全国でも五指に入るほどの大きさだというが、明治29年の地震で胸から下が崩落してしまったそう。
蝦蟇ヶ池辨天堂。昔、慈覺大使という人がガマに化けた貧乏神をここに引き連れてきて、堂を建立して弁財天女を祀ることで封じ込めたそうだ。
辨天様は金運商売、知恵、技藝の神であり、昔から”薬師、辨天には銭上げて拝め”といわれていたそう。
そして! そして何より、その御姿は美人の例えとされるほど美しく、男女で拝むとやきもちをやくほどめんこい性格の持ち主なのだとか。
「これは、さすがの私も銭を上げるしかあるまい…。」
奮発してがま口を開き、100円玉のポケットに手を突っ込むと。顔を出したのは、500円玉だった。
「………。」
姫待不動堂。
惡路王たちは京からさらってきた姫を窟上流に閉じ込めていたそうで、その姫が逃げ出した際、滝で姫を待ち伏せ。捕まえた後、見せしめに黒髪を切って石にかけたそうだ。
智証大師って人がその滝を祀ったのだそうで、その滝と石はこの先の街道沿いにあるみたいなので後で見に行くことに。
私と同い年の再建された金堂。桁行五間梁間六間とまぁよくわからないが、とにかくバカデカいお堂である。
駐車場で出逢ったツーリングご一行の方たちに元気をもらってから、しばし徒歩で東へ。
こちらがお姫様が待ち伏せされたという姫待瀧。けっこう流れが激しい。
で、こっちが髪を晒されたという鬘石(かつらいし)。いつの時代にも悪党はいるもんだね、美人をいじめるのはよくない。
天気は曇り。「岩手らしい鼠色だ」なんて厳美渓で言ったからこうなったのだろうか。
それにしても坂上田村麻呂や姫待瀧の伝説などは、今まで見聞きした伝説よりも妙に生々しい雰囲気がした。
東北、みちのくはかつて(今もけっこうそうだが)未開の地。力が全て、弱いものが虐げられるといった動物的な仕組みが、長く続けられていた険しい地なのだろう。
進む歩道を見下ろしてみると、干からびたミミズに野垂れ死んだ毛虫、アリに引き摺られる蝶…。
ああ、ほんとうに岩のように厳しい地で、だからこそ美しい物が生まれる。そういう土地なんだろうな、ここから先は。