望郷の刃
6月10日
昨日は例の如く長沼の温浴施設でのんびりしていた訳だが、そこのスタッフより耳寄りな情報を聞いた。
「刀が好きなんでしたら、岩出山に刀がたくさん展示してあるところがありますよ。」
とのこと。
岩出山か…。ちょうどそこの『感覚ミュージアム』なるところにも行ってみたかったし、訪ねてみよう。
というわけで登米あたりより、4号線を南下(逆戻り)して47号、岩出山へやってきた。
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「感覚ミュージアムは残念だったな…。」
コロナの影響でおもしろそうな展示物が体験不可となっており、苦い思いをした私。
だが次に訪れた『中鉢美術館』は、刀ロスの私にとってなかなか有意義な時間をもたらしてくれた。
建物自体は小ぶりなのだが、中はきれいに整えられており、整然と幾振りもの刀が展示されている。
童子切で有名な安綱の作も
沖田総司も使っていたという加州清光も
徳川家への呪いで知られた村正もあった。
私は正直刀についての学は浅いが、それでも聞いたことのある刀匠の名が見れてうれしかった。
もちろん読み物としての資料もあり、ありすぎて全部読む気力はなかった。が、一部語らせていただきたい。
この美術館が言うには、刀の源流は東北にあるのだという。
ロシアと中国及び朝鮮半島経由で伝わってきた鉄は、蝦夷の地で古墳~平安時代前期にかけて蕨手刀という武器として成型。それが何度かの変化を受けて、平安時代中期ごろに刀として完成されたのだそうだ。
大昔の東北には大きく分けて三つの鍛冶集団がいたそうで、それぞれ岩手の舞草鍛冶、山形の月山鍛冶、宮城の玉造鍛冶がいたそう。
彼ら奥州の鍛冶は律令政権が進出する過程でその支配下に置かれ、支配者のために刀作りをさせられたのだそうだ。当時の掛図には”俘囚”と呼ばれた彼らが鬼として描かれており、蔑まれてきたということがよくわかる。
時には故郷から引き離されてまで鍛冶仕事をさせられた彼らは、一体どんな想いだったのだろう。自分たちの仕事が認められ、また遠方でも昔からの仕事ができて、嬉しかったのか。それとも、やはり故里の地で死ぬまで刀を作りたかったのか。
作者銘が刻まれた現存する最古の奥州刀『閉寂(ふさちか)』。
めでたい銘であることから、祝い事などに使われたという玉造鍛冶の『宝寿』。
モンゴル刀やアイヌ刀、青銅剣など、様々な国・時代の剣も見物することができた。
館長の中鉢 弘氏は、上記した故郷の鍛冶職人たちが鬼として描かれた絵『鍛冶神像掛図』と出逢ったことで、ここを作ることに決めたのだとか。
先人たちの何かしらの想いを汲み取り、刀の探求に駆り立てられたのだとか。
また北の鉄文化探求者として名高く、この刀文化の解明にも一躍した佐藤矩康氏も、故郷宮城県岩ケ崎市への想いから、研究に尽力したという。
正直訪れるまではどこぞの刀マニアのおっさんが道楽で作り始めた美術館かと思っていたが、全然違っていた。
むしろ刀というより、故郷の先人たちの想いを掘り起こしたい、誰かに伝え、残したいという一心からここはできたのだろう。その先人たちの得意物がたまたま、刀というそれだけのことなのだ。
万物には心が宿るというが…。次、私が家に帰って愛刀を振るときは、少しは作ってくださった方の、気持ちというのを考えてみたいと思った。