風来記

侍モドキとバイクの放浪旅を綴ってます。

語り部

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「よし、こんなものか。」

昨日、警官に教わった水入りペットボトルを振る鍛錬で、前腕部がいい感じに熱くなってきた。刀は使えないが、筋肉は衰えさせるわけにはいかない。

背中に寂しさを感じつつも宮城県へ入った。

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4号線を仙台方面へ向け北上する。

青い空にほどよい雲、左には小高い山々が連なり、扇状地には果樹や畑、民家が見られる。いいかんじだ。

国道49線や福島を抜けるまでの4号線はパッとしない雰囲気だったが、ここは走っていて心地いい。知らず知らずのうちに洗練されて出来上がった、そんなイメージの風景だ。

 

 

大河原町で左折し、村田町へ入る。

村田は、以前小学生時の担任に挨拶した際、「寄ってみて」と勧められた場所だ。

聞いていた通り、蔵が並んでおり風情がある。

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行田は足袋蔵だったが、ここはどうなのだろうか。さっそくその歴史を調査してみようと降車した。

観光協会的なものは…。とぶらつくと、良い感じの土産屋を発見したので寄ってみる。

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中には、ほうきやらランドセルやら人形やら、どうジャンル分けしたらいいのかわからない品々が陳列されていた。

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そして、店の地面から一段高い接客用の畳に、丸顔でやや色白の、メガネをかけた老婦人が一人座っていた。

 

「趣きのあるお店ですね。」

「あら旅のお方? ようこそいらっしゃいませ…」

ここは蔵で有名な村田ですよと、親切に教えてくれた。さらに親切ついでか、その由来も。

「ここは昔、紅花の生産地だったんです。紅花といえば、山形ってイメージがあるでしょ? ところがここ奥州仙台の紅花も有名でね、ここから京都と東京に出荷してたんです。

 京都では染め物、東京では口紅として利用されたんですよ。」

その貿易で京都と東京の文化や品々も買い付けたため、両方の文化が混在しているのがここの特徴なのだそうだ。

「京都へ紅花を持って行くときはね、山形は最上川や滋賀の琵琶湖を、船で渡って往来したんです。だから、近江あたりの文化も入ってるんですよ。質素倹約して得たお金は、自分のためではなく地元のために使え、っていうここの商人の魂も、そこに由来してるんだとか。」

「奥さん、ずいぶん詳しいですね…。」

「私は、この家に生まれて以来ずっっと、80年以上ここで暮らしてきたんです。そんな中で、自宅にあった古文書を紐解いていって、実際に自分で書いてある場所を歩いてみて。いろいろ知ったんです。ここ以外のことは、なんもわかりませんけど。」

と最後に口元を緩ませて話してくれた。

 

なんということだ、観光協会なんぞに寄る前に、大体のことは把握できてしまった。

「本も出したんです」と指差した先には、丁重な表紙の書籍が数冊。表紙には、大沼との名が。

 

 

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「せっかく来たんですから、記念館も見て行ってください。」と言われ見物。

嘉永に建築された味噌蔵や塩蔵、明治の店蔵が立ち並んでいる。

東日本大震災の影響でいくつか破損したそうだが、その後重要文化財に指定されたこともあり、復元がされているという。だが、大沼さんいわく「まだまだだね」とのこと。


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テレビ番組で解除されてそうな金庫。(というか実際、蔵奥にはテレビで紹介された金庫があった)

他にも、古文書などが贅沢に並べられていた。

 

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母屋。村田の場合、新しいものほど2階建てが多いそうだ。段々お洒落さんになってったんだね。

 

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蔵を外から見る機会は何度かあったが、中に入れたことなどあっただろうか。

薄暗い照明がとてもオツというかぞくぞくする。これは宝をしまっておきたくなるわけだ。

 

展示されている資料の解説を読んでいくと、—大沼家の資料を基に復元——といった記述を発見。

「おお…本当にあの奥さん、ここの末裔だったんだ…。」

だからそうだと言われているのに、実際に目の当たりにすると衝撃的だった。歴史的な偉人に会った気分。

 

私からしたら、ずっと同じ家に住み続けるなんて退屈だと思うけれど。

あの奥さんはそんな生活が好きだったんだろうな。だからこそ、自分の家のルーツを自分から学んでいけたんだろう。長瀞のときもそうだったけど、そうしてそれを語ってくれる人がいるというのは、旅人である私にとって感謝感激である。

 

 

 

余談だが、昔の村田の人々は紅花を使った紅の色を知らない人が多かったのだそうである。

理由は簡単、染め物にする技術はここにはなく、京都にしかなかったからだ。

そして昔は質素倹約で有名な徳川吉宗の時代。そう高級な衣類を買えるわけもなく…。そんななか誰が閃いたのか、京都から雛人形を買い付けた商人がいたらしく、その人形に着せた紅の着物を見ることで初めて、人々は自分たちが作る紅花の色を見ることができたのだとか。

娘たちが、雛人形見せてと各家を回る風習もあったそうだ。

 

そして我ながら驚きなのが、私自身、その紅花の色を見忘れていたということである…。村田村のどっかにあったのかな、京都で見れるのかな………。

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