香
「なんかさぁ、香りって不思議だよね。かぐとそんときの思い出がフッと蘇ってさー。」
家の大掃除をしている最中、母が放った一言である。
その時はさほど気に留めなかったが、旅の再開にむけ玄関先に停めたロケットⅢをいじくっているとき、ふと香った磯の香りがどうにも懐かしく感じた。
海のすぐそば、母が一人手で建てたここに吹き込む、この香りで私が思い出すのは。初めてバイクを買ったときのことだった。
今この時と同じく、群生した三つ葉の上に停めたニンジャ400R。その情景が思い起こされる。
思えば、お母さん、ばあちゃんにはいつも世話になりっぱなしだ。ワガママを言ってバイクに乗らせてもらって、今またワガママを言って一人旅なんぞにかまけさせてくれている。
何度、実家に住んでそこらで働いていた方が、まだ親孝行になるだろうと思ったことだろうか。あまりにも生を授けてくれたことに対して、恩知らずすぎるのではないかと。
だが、しかし。思ってしまったのだ。
頂いた生を、大事に、大事に、傷一つ付かないように長持ちさせるよりは。
少しでも、少しでもできる限り。輝かせてみせた方が、親孝行になるのではないかと。思ってしまった。
名を上げたその人の母こそ、自分であると言わせてやった方が、恩返しになるのではないかと。
手前勝手な理屈も甚だしいが、家族はそれを承知してくれた。
そうして、この旅は始まった。
6月3日
「じゃあ、行って来るよ。
…今生の別れじゃないんだから、そう寂しくなさんな。」
言い聞かせた相手は、親か。それとも自分か。
サイドスタンドを払い、また旅人の空へと戻った。
いわきから郡山へと抜ける国道49号は、自然が生い茂る深緑の道。
葉が雨露に濡れた香りが、ヘルメットへと吹き込んだので。それを、深呼吸で吸い込んだ。
ああ、旅の香りだ。
郡山へ着くころには、気持ちが切り換えられるだろうか。