決戦の地
USBとシガーソケットの電源がお釈迦になったため、小倉の2りんかんで取り替えてもらうことに。
持ち込み日の31日までは、福岡到着時にお誘いいただいた『お母さん家』店内に寝させてもらうこととなった。
とはいえロケットⅢの駐車料はかかるので、一応野宿場所も探したのだが…見つからず。
本当に昼が短くなった。まだ17時にもなっていないのに、陽があんなに低い。
今回はいいが、これからは野宿場所探しを早めなくちゃな…。
小倉はちょうど、イルミネーションが始まる季節。百貨店はクリスマスツリーを飾ったりして、街はすっかり冬気分だ。
ハロウィンの、少し浮かれた深夜の街中を、お母さん家が閉店するまであてもなく歩き続けた。
11月1日
幸い、電源はヒューズが切れただけだったため財布は軽傷で済む。小倉のゲストハウスで一晩過ごし、いよいよ霜月。
「ありがとーっ九州―――――!」
せっかくなので320円払って関門橋を渡り、1ヶ月過ごした九州に別れを告げる。
色々ぶっ壊れたり散々な目にも遭ったが、良い処だった…!
久々に本州へ上陸するや否や、すぐに広島方面へは向かわず進路は南へ。唐戸桟橋へと向かう。
付近には市場や水族館があり、週末ということもあって人で賑わっているが、そちらには興味はない。
目的はこれだ。
「巌流島…!」
言わずと知れた日本屈指の剣豪、宮本武蔵と佐々木小次郎が決闘を行なった地。
全然ノーマークだったが、地図を見たらたまたま関門海峡にあることを知ったのだ。
ちなみに北九州には武蔵の養子・伊織の墓があったりなど、この辺りは宮本武蔵にかなり縁の深い地であったりする。
連絡船に乗り、いざ巌流島へ。往復で900円と、割とリーズナブルだった。
フェリーと違い小型船なので、手すりにつかまっていないと容易に態勢を崩すほど船体は揺れる。
上陸。遊歩道があるのは島の東側だ。
舟島(ここの正式名称)神社や佐々木巌流の碑などが道中にはあるが、人でごった返す前に1番乗りで船から降り、例の場所へ赴く。
関門橋がよく見える。
例の場所、到着。
「おお…、武蔵だ………!」
1612年4月13日。
決闘を申し”込まれた”佐々木小次郎待つ巌流島へ、武蔵はおよそ2時間遅れで到着する。
遅参に怒った小次郎は鞘を投げ捨て、波打ち際で刃渡り三尺の刀を武蔵に振り下ろす。が、切っ先は武蔵の鉢巻きの結び目を切っただけで、同じく武蔵が振り下ろした、船頭から譲り受けた櫂の木刀は、小次郎の脳天を直撃した―――。
有名な決闘である。
それ故かここは決闘の名所とされているそうで、アントニオ猪木とマサ斎藤のプロレスが当地で行われたり、2018年に行われた羽生善治と広瀬章人による竜王戦の前日には、両名がここを訪れたりもしたそうだ。
決闘は関係ないが、吉田松陰や斎藤茂吉、坂本龍馬とその妻お龍など、名だたる人々が上陸した記録もある。
まぁ、そういった意味で武術を志す者にとってはちょっとした聖地だと思うのだが。
「いつも教えを享受しております。ありがとうございます、武蔵師匠(せんせい)…!」
私にとっては、ちょっと違う意味でも聖地であった。
僭越ながら私、旅を始める前から五輪書を愛読しており、旅中でも毎晩一訓ずつそれを読み返しているのだ。
故に、恐縮ながら”師匠”と言っても過言ではない人物なのである、宮本武蔵は。
1μmでも彼に近づくために、朝鍛夕練、頑張らなくっちゃな。
ちょうど帰りの船に乗ったところで、運よく桟橋の陰からひょこりとタヌキが這い出て来た。彦島から泳いで来たのか、いつからか住みついているらしい。
タヌキとは”他を抜く”とも書けるので、この勝負の地で会えたのは実に縁起がいい。ありがたい!
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唐津へ戻り、ロケットⅢで若干北上。もう一ヶ所、このあたりでは寄りたい場所があった。
壇ノ浦。そう、源氏と平氏が決戦を行なった場所である。
保元の乱にて後白河天皇側として勝利し、貴族としての地位を手にした平 清盛。その後清盛が64歳で没するころまで平家の隆盛は誇ったが、石川の倶利伽羅峠(野宿したなぁ)にて源
義仲に敗れてから、西国への都落ちが開始。
一之谷や屋島(活躍した与一を祀る神社、栃木にあったなぁ)の戦いで源 義経に敗れ、平 知盛はここ壇ノ浦で最期を覚悟。それを聞いた一門は、数え年わずか8歳の安徳天皇をはじめ多くが入水した。
貴族政治から幕府政治へと移り行く、歴史の転換点だった―――。
“祇園精舎の金の声、諸行無常の響きあり”
東へ西へと流れを変える関門海峡の波を見ていると、本当、世は不変ではないのだな、と思い知らされた。
もちろん、良い意味でも悪い意味でもである。できるならば私たちは、良い方へ転じることを願って努力して。少しずつ、世の中を変えていければ。いいんじゃないだろうか。