鎖国の窓
9月30日
シャワーと朝食を恵んでいただき、前田さん宅を後にする。
本日は、長崎観光だ。
日本の端とはいえ、流石は風に聞く一大拠点。市街地に入るや否や、そうそうたる建物が景色を埋め尽くした。もー路面電車にはビビらねーぞ。
1日200円で停められる駐輪場へロケットⅢを押し込み、足を動かす。
上は長崎税関下り松派出所、下は香港上海銀行。
鎖国時代において、唯一公認された外国とのが窓口であった長崎。開国後も重要な貿易港として用いられたこともあり、往時を想わせる歴史的建造物が多く鎮座している。外国の様式を取り入れまくったそれは、函館を思い出させる。
大通りとなっている国道499は、かつても大浦バンドと呼ばれたメインストリートであったらしい。この通りに各国の領事館が並んでいたんだと。
川口さん曰く「長崎は坂が多すぎるから、自転車に乗る人はいない」とのことだが。まさに、それを物語っているような急坂がすぐに現れた。
坂を上っていくと、国宝の大浦天主堂に。日本最古の教会なんだそうだ。
その後はすぐ近くにあるグラバー園へ入っていってもよかったが、小学校の旅行一行がそちらへ行くのが見えたため出島方面へ。
いやぁ。これは………。
坂がどうとか言ってられない様子である。
階段だらけ。坂だらけ。遠方には斜面にズラズラと家屋が立ち並んでいるぞ? 物凄い街だな……。
そんな通路を、サラリーマンや日傘を差したおばあちゃんがスッサスッサと行き来していく。こりゃあ長崎市民は足腰が強そうだ。
傾斜率20%だと……!?
再び大浦バンドへ出て、長崎県美術館を抜けて出島地区へ。
歴史の教科書にもあったようにかつては扇形だった出島だが、今は周囲も埋め立てられて島の様相はなくなっている。現在の港側にはレストランが立ち並んでおり、付近のオフィスからスーツ姿の人々が歩いてきてテラスで食事を摂っていた。
くっ長崎市民めなんて優雅なんだ……!
いい時間だったので、私もそこで昼食を摂っておく。サラリーマンがいるだけあって意外と高くはなかった。
こちらが本来の出島。こうしてみると、扇形というのが分かる気がする。中へ入るのは有料(長崎市民は無料)だったので、来た道を戻ってグラバー園方面へ。
オランダ坂。
昔の長崎市民は、オランダ人と親しかったことから外国人はなんでもかんでも”オランダさん”と呼んでいたそうで、外国人居留地の石畳の坂は”オランダ坂”と呼んだそうだ。
右に見える建物は、湊会所という長崎税関の前身。今、長崎税関は出島の近くにある。
実はこの道はさっき出島へ行くときも通ったのだが、そのときは多くの学徒とそれを送迎するためか車が渋滞を成し、写真のようなカランとした状況ではなかった。
坂の上にはかつて活水女学院なるものがあったらしく、現在も学校があるようだ。
グラバー園も例に漏れず坂に立地された場所であり、入り口は下と上の二ヶ所がある。
足が疲れるので、グラバースカイロードなる斜めエレベーターを使って一気に上へ上る。流石にこういうのがないと、お年寄りは辛いよね…。もちろん無料だった。
標高を上げて改めて見てみると、やはり凄い坂の街である。群馬を思い出した。
本日最後の目的地、グラバー園へ。
正直”グラバーって誰だよ…”状態の私であったが、名所らしいので金を払って入ってみた。
んーーーーーーー。
確かに昔の建物がよく残っているが、言うほどだろうか…。
散策路も庭園というよりは、公園って感じである。
私には合わなかったか?と思いながら暫く歩き続けると、外れの方に良い感じの住宅が見つかる。
「お、これは割と好きかもな……。」
ザ・別荘って感じの邸宅。趣味が合いそう。
グラバー商会の茶葉貿易を受け継ぎ、ナガサキホテルの経営にも勤しんだフレデリック・リンガーって人の住宅だったらしい。
どうやらグラバーという人は、商人だったらしい。
中にはいろいろと資料があったので、読み漁ってみた。
トーマス・ブレーク・グラバー。
若干21歳にしてイギリスの貿易会社『ジャーディン・マセソン』の補佐として長崎を訪れるが、上司は中国での業務の為急遽長崎での仕事は彼に一任、20代前半の若さにして商会の大仕事を任されることとなってしまう。
だが彼の才能はそんな状況を好機としたらしく、『グラバー商会』を設立してめきめきと手腕を発揮する。
日本茶の製造、炭鉱の整備、修船場の開発、武器の売買…先ほど歩いた大浦バンドでは、日本で初めて蒸気機関車を走らせたらしい……と、語ればキリがないほど物凄い人だったのだ。
だが代金後払いで商品を売買した分の代金回収が上手くいかなかったり(いい人だったんだろうなぁ…)、マセソン商会の援助も絶たれたこともあって彼の商会は1870年に倒産してしまう。
それでもその後も三菱の相談役となったりキリンビールの前身の設立にも関わったりと、彼の多忙な日々は終わりを迎えなかった。奥日光で釣りをしたりと余暇を楽しんでいたりもしたようだが。
その功績が讃えられ、外国人としては初の勲二等旭日重光章勲記も贈られる。
その後東京で病により73歳で亡くなり、今は日本人の妻だったツルと共に坂本共同墓地で眠っているそうだ。
そのさらに奥には”なんだよこの神殿”っていうような当時一番豪勢だったというオルト邸宅と、
英語教育で知られたスティール・アカデミーがあったので、それらを程よく見学。
建造物の中の解説パネルは数えきれない。
管理するスタッフたちの愛と、当時の歴史の深さがうかがい知れた。
残念ながらグラバー邸は今は修繕中のため、中に入れず。
が、代わりに葺の入れ替え作業が見られた。
夕陽に染まり始める長崎を眺めながら、坂を下る。
なんというか………、いろいろ見どころがありすぎて、うらやましいなぁ! 長崎市民!
そんな魅力満載の街で、圧倒的な存在感を持っていた人間、グラバー氏。
彼が手腕を発揮し始めたのは、20代前半。私も僭越ながら、20代前半(?)
“まだまだこれからだろう?”
…なんだか、彼の生きざまに勇気をもらえた気がした。