太閤の見た夢
前回より
昨日、付近を地図で見たときに気付いたのだが、この辺りには『前田利家陣跡』『徳川家康陣跡』『真田昌幸陣跡』『上杉景勝陣跡』…と、名だたる武将たちの陣跡がそこかしこに見受けられる。
波戸岬でも、関東は北条氏盛の陣跡が見られた。旗竿石もあるし、町おこしのために無理矢理作った偽物でもないだろう。
一体なんなのだ、この戦国大名オンパレードは…。
鍵となるのは、付近にある『名護屋城跡』なるものだろう。そこへ赴いてみることにした。
鳥取でも見られたが、韓国語併記の看板がこちらでは見受けられる。北海道や福井で見られたロシア語が懐かしいなぁ。
名護屋城跡の入口へ。
虹の松原近くにあった唐津城に部材が運び出されたり、島原の乱で本格的に壊されたこともあってか天守などは残っていないそうだが、石垣のスケールからその巨大さがわかる。
一体こんな日本の端に、なんのための城なのだろう。看板を頼りにその歴史を知り、納得した。
この城は豊臣秀吉が朝鮮出兵の際に築かれた軍事拠点であり、大阪城に次ぐ規模でありながら、配下の諸大名に分担させて築城することで数ヶ月で完成したとのこと。
そしてこの付近には朝鮮出陣にあたり全国から参集した大名たちの陣屋が築かれたため、付近には名だたる武将の陣跡が残っているのである。その数なんと、130ヶ所。
地図の緑のところに、各陣跡があったそう。
筑後の立花氏や土佐の長宗我部氏はもちろん、美濃の織田信秀に、信濃の真田昌幸…宇都宮の宇都宮国綱、会津若松の蒲生氏郷まで!
どんだけ遠くからここまで来たんだ…! まさしく、当時の日の本オールスターがここにあったのである。
城跡を上り、三ノ丸へ。かなり広い。これは、まさしく天下統一を成した天下人のスケールだろう。なんでこんな城、今まで知らなかったんだろう…。
そこから更に上へ。安土城ほどではないが、石段もよく残されている。
そのまま歩を続け本丸跡地を目の前にした途端、思わず息を呑んだ。
「なんもないじゃん……!」
残念ではなく、圧倒されるという意味で。ほんとうに何もない。
今まで見てきた空き地と化したどの本丸跡よりも、広大な空間が広がっている。
ただ面積が広いだけでなく、その高さもあってこそこの壮大な雰囲気が成されているのだろう。
玄界灘を望む一級品の景観。今はなき天守台は地上6階建てだったというから、当時の秀吉の気分は筆舌に尽くしがたいだろう。
…と、加唐島の方面は、雨が降っているではないか。じきこちらにも来るぞ…。
近くにあった木の下で通り雨をやり過ごす。またしても虹が見れてしまった。
あらためて太閤の見た景色を眺めてみる。信長と安土城と違って秀吉はここで長らく過ごせたそうだから、幸せな余生だったのではなかろうか。
惜しむらくは、その野望が深すぎたことか。日本統一では飽き足らず、ここから朝鮮を侵略すべく幾人もの兵を、彼は送ったのだ。いくら火縄銃など朝鮮に勝る武具があったとしても、所詮は海を渡った先の地。そう簡単に占領できるものではないだろう。
そんな辛い戦を文禄・慶長の二度に渡って行い、結局は自身の死によってそれは打ち止め。朝鮮の地を荒らしただけでなく、その後の豊臣の世を縮めるきっかけにもなったのだから、哀れといえば哀れだ。もっとも5を手に入れたくば10を望め、それぐらいの欲深さがなければ、天下統一も果たせなかったのだろうが。
“太閤が 睨みし海の 霞かな”
まさに雨で霞む玄界灘を見ていると、そんな月斗の句が胸に沁み込む。
天下人が夢見た大陸は、霞でかき消され。
今はただ、夢の跡地で石碑が天を衝いているだけである。