夜音
9月10日
矢田川を少し戻り、『かすみ矢田川温泉』で1日休む。
町営というだけあってスパ銭ほど大きくはないが十分な浴槽で、汚くもなく清潔。田んぼとその奥の里山を見ながらのひと時は心癒された。
売店で買った『白バラ牛乳ソフト』。鳥取の大山(だいせん)という山に牧場があるらしく、そこで作られたらしい。行ってみようかな。
18時を過ぎ、すぐそばの農産物直営所にあった緑地にテントを張る。近くに住んでいたおじさまに「雨が降ったら、直売所の軒下に張ってもいいよ」と暖かいお言葉をいただく。
「まぁ、大丈夫だと思います。」
たしか明日は晴れの予報……って雨に変わってるじゃんか!
明日は鳥取砂丘を見に行きたかったのだがなぁ…。
見送る? いやいや、鳥取に行って砂丘を見なかったら、絶対後悔する! 早起きして、雨が降る前に拝むとしよう。
ということで、日課である母への生存報告も手短に、眠りに就く。
昨日のように波の音は聞こえないが、虫の音が聞こえる。鈴虫たち。もう、秋が近いかなぁ。気温もだいぶ、寝やすくなってきた。
風も弱く、虫や時折聴こえる鳥の声に囲まれながら、目を閉じることどれくらい経ったか。ふと、毛色の違う音を耳がとらえる。
“トットッ…トトッ……。”
“ササササ”
これは…。
マズイ。もしかしなくても、野生動物だ。
“フルフル”とそれの息遣いが聞こえたところで、その存在を確信する。
なんだ? 吐息が重い。猪か? 1頭…いや、2頭……?
いつ頃からだったか。テント生活に慣れ始めると、妙に聴力が敏感になる。人の話す声、車のドアが閉まる音、珍走団のエンジン音…。それらがすべて、恐ろしいほど近くにあるように聴こえるようになる。
つまりは、頭が”その位置にいる”と思っている場所より実際はかなり離れた場所にその物体があるのだが…。
野生生物がいるという恐怖を前に、そんな冷静さも失われていた。
“天幕を隔てたすぐそばに、いる……!”
なるべく音を立てずに、シュラフにくるまり、眠りに落ちる。幸い、音も遠ざかっていったようだ。
が、数時間経ち夜も深まったころ、また目が覚める。
体が何か感じている。いる。また、近くに、いる。
そしてこういうときこそ、そうなってしまうものだ。もよおしてしまった。
体感時間何十分と経ち、気配がなくなったころを見計らって。恐る恐る、様子を見つつテントから這い出てみる。
何もいない。
やはり、考えすぎだったか。
安堵して、満天の星を拝みつつ小便を垂らす。
そのときだった。
“タタタッ”
すぐさま振り返る。
“どこだ…? どこ? どこにいる……?”
始めは手近一帯を、それらを見終わると数メートル先を見渡す。近くにはいないようだ…。
そして視界を15m先の闇へ向けると、いた。
が、それは想像していたものよりも、えらく華奢な体躯だった。
「鹿…か……?」
おおよそ猪や、まして熊とは考えられない、細長い首の先に、ちょこんと載った頭が動いているのが見えた。
なんだ…。
今度こそ安堵して、テントにまた潜った。
相手は鹿、しかもあんな遠くにいる。まぁ、全ての音があの鹿だったとは限らんが。
車もたまに通るし、大丈夫だろう。
鹿もこちらに気付いたのか、急に”キャアンキャアン”とけたたましく鳴き始める。
“さっさと家に帰れ…。”
そう念じながら、明日の早い朝に備えた。