アブさん
8月14日
「すまんな、耳が遠くてなぁ。」
「あのバイクのー」
「ああ」
「そばの草地でー」
「ああ」
「一晩寝てもいいですかー。」
「ああ、どうぞどうぞ。雨はだいじょぶなんか?」
「だいじょぶです!」
「風邪ひかんか?」
「だいじょぶです!」
「ここらは全部ウチのもんだから、好きにテント張ってくれやぁ。」
「ありがとうございます…!」
90度に背中を曲げた。
白川郷の道の駅も、県境の先にある道の駅も。衛星写真などで調べてみても、テントを張れそうな草地はない。かといってアスファルトに張れば、また美濃加茂で味わった灼熱地獄になる…。
仕方がないので路傍の草地を探しつつ156号を北上していたところ、岐阜と富山の県境を繰り返す庄川あたりで、いい感じの田畑を見つけたのである。そしてちょうどよくそこに持ち主のおじいちゃんがシニアカーに乗って現れたので、一泊させてもらう許可を取り付けたのであった。
ということで手に入れたこの寝床なのだが、テントを張っている時にある問題点に気付いた。
「うああああやかましいいいい!」
“ヴヴヴヴヴヴヴヴヴ”
と耳にまとわりつく嫌な音。蚊ほどか弱くはなく、ハチより重低音ではない。
アブだ。アブが恐ろしいほど飛び交っている場所だったのである。
ちょうど卵の群生地にでも張ってしまったのか、ペグ打ちなどをしようとかがむたび、恐ろしい勢いで黒い残像が視界を乱舞する。ハムナプトラかなんかの、映画の1シーンみたいだ。
当然皮膚を噛みちぎられる訳にもいかなく、肌に付くたびにそれを追い払い…という行程を繰り返すため、テント設営は難航する。
新潟の親戚に頂いた蚊・ハエ用の忌避剤も吹きかけたが、効いているのかわからなかった。
何とかテントを設置し終えても、今度は食事を作らねばならない。アブを追い払いつつ火をお付ける作業の、なんと気の落ち着かないことか。道着をヌンチャクの如く振り回す私は、国道を行き交う人々にどう見えただろうか。
1台、スーパーカブに乗った壮年の男性が立ち止まり、「ここで寝るんですか。」と問いかけてきた。私こそこういった寝床は慣れているが、やはり普通の人から見たら異常なのだろう。
「ええ、まぁ。」
「へぇえ~。すっげぇ…。動物とか出るけど…、大丈夫なんです?」
「まぁ、慣れてるんで。」
というか今まさに動物(アブ)に襲われてるとこなんで
「食料はある? もしアレだったら、10分ぐらい走るとスーパーあるから。気を付けて。」
「ありがとうございます。」
今欲しいのは食料ではなく殺虫剤だ。
“いやぁ、すっげぇなぁ…”とつぶやきながら、男性は去っていく。
そんなに凄いか珍しいか。せいぜい記憶に留めてくれ。
ご飯ができると、アブに追いかけられつつ歩き回りながら納豆ご飯を口に運ぶ。
立ち食いならぬ歩き食いだ。落ち着かねぇ…。
と、ここであることに気付いた。羽音が、減った。
さっきまでブンブンブンブン鳴っていたのが、今はブン…!ブン……!って感じ。アブが減った…? 家に帰っちゃった?
時刻は19時ごろで、日没。アブは暑い時間帯を好まないという一文は見たことがあるが、これはどうなのだろうか。夜行性ではない、ということだろうか。
まぁなんにせよ、これ幸いと急いで食器を片付け、歯ブラシをガッシガッシ動かしまくっていると。橋の向こうからやって来たCBR250Rが減速し始め、そばに停まった。今度は何だ。
若そうな男性は降車すると、ヘルメットを取るでも挨拶する訳でもなく。CBRの前輪をグイグイと触って、それからまた乗車し
「パンクしたかと思ったら、大丈夫でした!」
「よかった! 気を付けて!」
なんなんだよ! このクソ忙しいときに、なんでこんなどうでもいい場所で人がやたら止まるんだよ!
答えの返ってこない問いを叫びつつ、本当に嘘であるかのように消え去ったアブを警戒しながら、テントに入り、寝た。
8月15日
羽音で目覚める。ブンブンブンブン……。
時刻を見ると、5時前。やはり、本格的な暑さが始まる前に動き出すのだろうか、彼らは。
昨晩テントを張っていたのは、18時ごろ。アブが消え去ったのは1時間後ぐらい。じゃあ試しに、もう一時間寝てみるか…。
~~
…思った通りだ。
6時前。羽音が消え去っている。やはり暑さ以外にも、活動する時間帯ってものが彼らにはあるようである。
「実に興味深い…。」
ファーブルもこんな気持ちで、昆虫を研究していたんだろうか………。
と、しみじみ浸っている場合ではない、なんで旅の途中で昆虫の生態を考察せにゃならんのだ。
アブがまた動き出さないうちに、テントを撤収した。
撤収のとき、左足に鈍痛を感じる。そういえば昨日白川郷で、排水溝の蓋を踏み抜いて変に傷めたんだったな…。
ちょうどよく今日は風呂に入る予定だったので、劈掛拳の練習は控えておき、南砺の山を庄川沿いに北上、砺波へと一気に移動する。
岐阜から続いた碧の川と緑の山とも、ここでお別れである。道は相変わらず快走路だった。
~~
開店前、一番乗り。
…だったのだが、半額目当てで申し込んだ入会手続きがエラー続きでうまくいかず、受付で1時間も待たされるハメに。
“そういえば、テント片付けるときに一匹だけ死骸を見かけたな…。祟りかな………。”