恋慕
7月25日
なかなか雨雲がしつこく、新潟の親戚宅を出るに出られない。
もう一晩泊めていただくことになったが、ただもてなされるばかりで申し訳なく、”何か手伝えることは”とおじさんに申し出たが
「百姓仕事は、経験がないと難しいから。遊んでてくれぇ。」
と笑顔で断られてしまう。まぁ、そうだよなぁ…。
北海道で少し農業のバイトでもしとけば、と思ったが、そういう問題でもないのだろう。
こういった仕事はところ変わればやり方も変わるし、その人その人の癖や習慣といった、味もある。
よく旅に憧れる若者たちは農家のバイトに関心を持ってたりするが、そう簡単に手を出せる領分ではないのだ。
“…こんな、山奥の人知れない場所で、汗をかき泥にまみれながら、一生懸命仕事した結果がブランド品なんだよなぁ。”
大間のマグロも。北海道のジャガイモも。ここのコシヒカリだって。
築地といった市場や空港、道の駅なんかで陳列されている姿こそ立派なものだが、それらを作る過程はかなり地道な光景なのだ。
私もどちらかといえば街で暮らしてきた身分なので。今までの華やかな生活は、こうした地方の地盤の上に成り立っているのだなと改めて実感する。
“無力だ…。”
腕を動かせなければ、気の利いた話の一つもできはしない。
とまったり弱まったりする雨を居間から眺めていると、
「どうだい、今日もウチに居るんだったらさ、ちょいと奥只見の方まで出てみないかい。」
とおじさんに声をかけられる。
そうだ、今まで移動してきた身だったんだ。外に出てみれば、何かただの無気力人間ではないことを見せられるかもしれない。
と二つ返事で応答する。といっても、そのおじさんの運転する軽自動車に乗せてもらう訳だが。
~~
「すごい山のシルエットですね。」
「ん、あれが駒ヶ岳で、あれが八海山で…。」
気になることを口走ると、運転席のおじさんはすぐ答えてくれる。さすが地元の人だ。
雪国でよく見られる、1階が車庫になった高床の住宅群。私がそれらの形式の家屋を知ったのは小さな頃新潟に訪れてからだが、そのことを話しても
「あれが流行りだしたのは昭和ごろだったか」「雪で車ダメになっちゃうから倉庫ないとね。でも倉庫建てる土地買うぐらいだったら、ああして家の1階にするわな。」
と情報をくれる。単に雪が積もったら1階が使えなくなるからじゃなかったのか…。
30分ほど走ると、今はもう使われなくなった料金所をくぐり『奥只見シルバーライン』へ入る。そこから一気に道はくねりだし、坂道の一途となり始める。そしてやがて、岩肌が天然のまま飛び出た、なんとも原始的というか…、武骨な長いトンネルへと突入する。
「すご…、こわっ……。」
今までいろんなトンネルを通ってきたが、ここほど恐さを感じた場所はない。
暗かったり、狭かったりするだけならともかく、トンネルのまま急カーブがある箇所がいくつもあるのだ。しかもこれが、10㎞以上続くのだという。
「元はこの先にあるダムを建設するための、作業用道路だったからね。今は観光用になってだんだん走りやすくなってきてるけど。ひと昔前は、観光バスなんかがすれ違えなくて、片方がバックするときもあったりするよ。」
と軽快にハンドルを切りながら、笑いつつ語るおじさん。その…いっちゃなんだけど、もう80超えてましたっけ? すごい運転慣れしてるなぁ…。
万が一トンネル内で火災が起きた場合、アスファルトだと燃えてしまう。だから路面はすべてコンクリートでできており、車体はつねにガタボコと揺れ続ける。とても、ロケットⅢで来る勇気はなかった。こんなとこがあるのも知らなかったし。
ところどころある通気口によってもたらされる、外気との温度差による霧を潜り抜けトンネルを抜けると、また曇天の下の深緑が見え始めた。
先ほどの話で出た、奥只見のダムである。水力発電も担っているらしく、長い電線がきっちりと張られていた。
ダム湖まで上っていくスロープカーもあったのだが、「大丈夫」とヒョイヒョイ坂道を登っていく新潟のおじさんとおばさん。
巨大な壁の反対側には、深い緑に染まった何億立方メートルという水が溜まっていた。近くには「秘境 奥只見」の看板が。…なるほど、高山ならではの肥沃な緑に囲まれたこれは、たしかに山奥の秘境って感じだ。
といっても近くにはレストハウスなどもあり、観光客はそこそこ居たのだが。
~~
「今度はトンネルを通らず、山沿いをずうっと走るよ。」
と、復路のトンネル内で曲がり角を曲がって外へ出ると、国道352へ入る。入り口には、”転落事故多発 初心者はシルバーラインを”との表記が…。
「うおお、こっちはこっちで恐い…。」
狭い。幸い対向車は1台ぐらいしか出会わなかったが、たとえ単独であっても、ハンドル操作を誤れば崖下へ真っ逆さまの道だ。噂に聞く酷道ってやつである。
“とてもバイクじゃあ来る気にはなれないな…”
と顔を青ざめさせている間にも、おじさんはヒョイヒョイとクネクネ崖路を上っていき。気付けば「ここが折り返し、頂上かな。」という駐車場に。
「あとはひたすら、下りるだけだね。」
と小休憩を挟み再出発すると、間もなく遠方、というほど遠くでもなく、かといって手でつかみづらい位置に大山の稜線が見えてきた。
はじめは、まぁ何処にでもあるような大きい山だろう。と思った。
だが。なんだ。あれは。
険しすぎず、かといって筋の良すぎない飽きの来ないあの稜線。
深い緑があるかと思えば、薄緑の一帯もあり。まるで洋服を思わせるその衣の上に、ポツン、ポツンと残雪の白い雪化粧を飾った山肌。
頂から麓へと、すう、すう、と流れ落ちるように垂れ下がっている、まるで宮殿を思わせるような何本かの尾根。
「綺麗な山だ…。」
「ああ、あれはね中ノ岳だよ。越後三山の一番高い山だね。」
シャッターが止まらない。
何故だろう、今まで色々な山を見てきたが、その中で一番美しい気がした。
写真を撮っていれば、まるでそれを我が物にできる気がして。助手席でひたすら写真を撮る。
例えば、美麗な体躯を持った狼を目の前にして。
例えば、艶やかな衣装を身に纏った美女を目の前にして。
それを我が物にしたい、抱き締めてみたいと思うような、そんな今までにない感覚だった。
別段、日本一のなんちゃらって訳ではないのだが、どうにもあの姿が、私の好みにピタリと合う。
ああ、多分、多分この感覚は、あれだ。
馬鹿みたい、まるで変態だが。
“恋だろ、これは……。”
峠を下るにつれ、他の小高い山が視界を遮り、さらに下り切ると霧でその姿は見えなくなり、愛しいその人とは別れとなる。
………少し、ボーっとしていた。
いつか頑張って登るなら、あの山にしたい。そして触れ合いたい。
そんなことを、思っていた。と思う。