地方との境
7月16日
「やっぱやりたいことは若いうちにやっとくべきだよ。いや~俺も若い頃に戻りたいよっ」
テントを片付け荷造りをしていると、年配の男性に話しかけられる。「俺も若い頃は芸能関係の仕事をしてたんだ」という彼は、珍しいからとロケットⅢの写真を撮ってくれた。
鼻を高くしてその様子を見ていると、そうだといって大量の元気ドリンクをいただいた。
おまけに今日は大雨の予報もない。なかなか幸先のいいスタートだ。
昨日の野宿場所であった埠頭を見ても思ったのだが、夕陽、潟、鳥海山と自然主体の見どころが多かった秋田に対し、山形は倉庫群といった、人間主体の見どころが多く目についた。
主に米の保管に用いられたという山居倉庫は、それを象徴するものだった。
今まで見た倉庫群とはまた違う、黒い木製の外壁が目を引く。二重屋根にして通気をよくするなど、細部のこだわりも目新しかった。
ここ酒井は江戸時代、佐渡と三国に並ぶ三大船箪笥の産地として知られていたという。その優れた木工技術は現代にも引き継がれており、地元の木材を使った艶やかながら暖かみのある作品を資料館では見られた。
県境を越えたとたん、この変わりよう。自然ではなく人間の文化を見て愉しんでいれば、商人や匠たちの威勢のいい喧騒が聞こえてきそうな気さえする。
なんとなくだが、ここらが人の栄えた街と、自然を慈しむ地方の境目な気がした。
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加茂水族館へ近づいて見たが、入館料が貧乏の身には辛い…。
独り身で海月たちを見るのもなんだか癪なので見送り、鶴岡に落ち着く。
そこで訪れた名所もまた、人の営みを垣間見れる場所であった。
庄内藩校『致道館』。もとは駅前付近にあったが、政教一致の考えに基づき鶴ヶ岡城敷地内に置かれた学校である。
よく史跡の看板などにありがちな”〇年に焼失し~—”といった記述がない、戦災を受けることなく現存する貴重な国指定史跡である。なのに無料。敷地は狭いが、十二分に往年の勉学の空気を感じられる。
ここでの学制も現在と同じく、小・中・高・大学といった区切りがついていたとのこと。高校以上は宿泊もできたみたいだが、年に米7俵という自費が必要だった。
従来の朱子学を批判した徂徠学を基本とし、戊辰戦争後は西郷隆盛の教えで孔子を根本に捉えた学業を学徒たちは学んだ。それは連綿と受け継がれるなかで独自の学風を立てていき、やがて”庄内学”という名を冠するまで大成したものになったという。
明治6年(1873年)の廃校以降は、県庁、警察署、また女子教育のための学校などにも本館が使われるなど、鶴岡の学業は止まることを知らなかった。
こちらは明治8年に落成された朝暘学校で、1,000名以上の生徒を収容する壮麗な校舎は東北一とも言われたそうだが、明治16年に焼失してしまった。
藩主が来校した際のための専用の間”御居間”にもしっかりと入れる。ここに座れば、気分は殿様気分…か?
かつて庄内藩士が刀を鍬に持ち替え開拓した庄内地域。古いしきたりに縛られず積極的に地域を活性化させていったその手腕は、こういった学問への注力によるところも大きいのだろう。
その甲斐もあってか大地主の豪商・本間家なども生まれ、その財力によって庄内藩は最新式のエンフィールド銃やスペンサー銃を購入。戊辰戦争にて連戦連勝を成し遂げるなどしたのだから、知は力なりといったところか。
「あー勉強嫌いなんて言わず、岩出山の有備館も見りゃよかったかなぁ。」
ってあっちは有料だったか。
教室を出ると、また久々の青空が出迎えてくれた。